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envelope

as a door

GALLERY CAPTION 2020

local

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「envelope as a door」に

 <参加>してくださった

 すべての方々へ-

 

「envelope as a door 2020」は、2020年4月、最初の緊急事態宣言を受けてギャラリーが休廊となったことをきっかけに、オンラインと郵便を介し、7作家により9回にわたり行われました。そして今年9月にはそのローカル展「envelope as a door: local」 として、まだお届け先の決まっていない作品と、皆さんからお借りした、お届け済みの作品とその封筒とをあわせて「ETHICA」にて展示しました。

 

<封筒をギャラリーに見立てて作品を送る>というこのプロジェクトで、私自身が関わることができたのは、作品をどのように仕立てて皆さんにお送りするのか、というところまででした。作品にあわせて封筒と切手を楽しく選び、封蝋してポストに投函したら、ぷっつりと自分の手から離れ、途端に何もすることが無くなり、最初ちょっと戸惑ったことを覚えています。通常の展覧会でしたら、初日からたくさんの方々がやって来て、反応がダイレクトに返ってくる。SNSに投稿すれば、誰かが<いいね>を押してくれる。何かすればリアクションや返答がすぐに返って来ることに、慣れすぎていたのかもしれません。ポストから戻ると、ギャラリーはいつにもまして静かで、なんとも心もとない心地がしました。

 

それでもしばらくすると、ありがたいことにメールや、なかにはお手紙で「届きました」の報告をくださる方が何人かいらっしゃいました。ネットで購入したものが不意にポストに届いているのを確認したときの高揚感や、封筒を開けるときの緊張感・・・ひとつの体験として楽しんでくださった様子が文面から伝わってきて、何か作品だけではないものをお届け出来たような喜びがありました。

それが今回「envelope as a door: local」をきっかけとして、受け取られた皆さんの<その後>を知ることで、このプロジェクトの本当の面白さというのは<何を送ったか>とか<何を受け取った(買った)か>ではなく皆さんが≪どう受け取ったか≫にあったのだ、ということに、私自身がようやく気づくことができました。そして、それは想像以上に面白いことでした。私も、そして作家自身も知らない、皆さんが封筒を受け取ってからはじまったいくつもの<物語>を知るにつれ「作品とは作家だけで作られるものではない」(*1)ことを、身をもって知りました。

 

作品の借用をお願いしたおひとりから届いた「実はまだ開けていません」というメッセージを、SNSでご紹介したところ「わたしもまだ開けていません」というお声が他にもいくつか届き、それは思ってもみないことでした。理由はさまざまで「いつか開けようと思っているけれど、もう少し楽しみをとっておきたい」、「開けるタイミングを計っている」という方や「開けたら作品ではなくなってしまうのではないか」という思いがあり、なかには「2つ買って、ひとつは開けました」という方も・・・。<封筒をギャラリーに見立てて作品を送る>というコンセプトを立てた当人としては<封筒は作家の指示ではなく勝手にこちらで用意したものなので、作品ではない>という意識があったのですが、「envelope as a door」を皆さんがどのように捉えたのかが「開けない」「開けられない」という思いに表れているのだと受けとめました。他にも「ポストに届いたときの緊張感が忘れられない」という方、工夫して額装してくださった方、「自分の身近に置いておきたい」と車のドアポケットが定位置になっている方、これをきっかけにしてお手紙を出してみたという方、「コロナの閉塞感のなか束の間の楽しみを得た」という方、さまざまなメッセージをいただきました。

 

面白かったのは、封筒と作品をお借りするときに「きれいに開けていないけど、大丈夫ですか?」とおっしゃる方が何人かいたことでした。お借りした、言うなれば<里帰り>した封筒を見ると、その痕跡から、その人と封筒とのプライベートなやりとりをたどることができるような気がしました。あの日ポストに吸い込まれていった後に起きた、さまざまな出来事が封筒に刻まれていて、どれも確かに自分が送ったものなのですが、もう何か別のものに変わっているような感覚がありました。

 

プライベートという点では、他に所有している作品と比べて「envelope as a door」の作品は明らかに自分との距離感が違う、と言う方もいらっしゃいました。「自分に送られて来た手紙を他人に見せるようで、とっても恥ずかしいです」という言葉から、受け手と封筒との密やかな距離を想像しました。この方には、無理に借用をお願いせず、メッセージのみを会場でご紹介しました。

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「envelope as a door: local」がはじまり、9月23日には鬼頭孝佳さんを案内人に「茶話会:ドアとしての封筒」を行いました。案内人を打診した折、鬼頭さんから「参加者の方と事前にお手紙を介したやりとりをしてはどうか」という提案がありました。茶話会の前に、封筒を通じた共通体験があった方が「envelope as a door」をイメージしやすいのでは、という鬼頭さんの配慮でした。

 

お申込みいただいた方に、鬼頭さんからのお手紙を(時間がなかったため)メールでお送りしました。なめらかながらやや古めかしい文語体で綴られたお手紙から想像された「鬼頭さん像」は皆さんそれぞれだったようですが、その内容は以下のようなものでした。

 

① このお手紙を読んでイメージされるわたし(鬼頭さん)にふさわしいと思われる封筒を用意し

 

② 参加される方の思い出の風景やものを写した写真(の複製)を封入し、山口宛に送る

③ 山口が写真を見て、その印象、写真から伝わる想いを言葉に置き換え、鬼頭さんにメールで送る

 

④ 鬼頭さんは、受け取った言葉をもの、あるいはさらに別の言葉に置き換え、茶話会当日に持参する

 

手紙というのは、時間のラグや、時に言葉に込められた思いの伝わり方にずれが生じるもの。そんな時間やイメージ、言葉のずれを、皆さんにも体験してもらおうというものです。茶話会まであまり時間の余裕のないなかでしたが、皆さん快く応じてくださり、思いのほか早く私のもとに届きました。鬼頭さんからは「届いた写真の<想い>を言葉に」とのご指示でしたが、中身と一見不釣り合いな茶封筒、QRコード付き、封筒の内側に印刷された模様が薄く透けて見えるもの、点字が一面に打たれた封筒・・・まさに4者4様。さらに貼られた切手のこだわり、開けるときのハサミの感触もそれぞれで、中には開けた瞬間ほのかに甘い香りがするものもあり(後で聞いたらそんな匂いをつけた覚えはないと言われましたが)、封筒が運んでくるものは<中身>だけではないこと、そして何より封筒というメディアが纏っている情報の多さに、「envelope as a door」が宅急便ではなく封筒でなくてはならなかった理由のひとつを、自分自身が確認したのでした。

 

さて早く鬼頭さんにバトンを渡さなくては・・・と、言葉を探し始める段になり、参加者の皆さんと鬼頭さんをつなぐ仲介者として、もしや私はとても重要な役割を仰せつかったのではないか・・・と気づいたのですが、時間が無いこと幸い、あまり考えすぎないようにして、鬼頭さんへお送りしました。

 

いよいよ茶話会当日。事前に展示を見ておくため、少し早めに鬼頭さんが来てくださいました。ひと通りご覧になられたあと「では皆さんが来る前に確認しておきましょうか」と、鬼頭さんが両手におさまるくらいの箱や小さなハトメ付の封筒を取り出しました。「どれも100均で購入したものと拾ったもので揃えました」というそれぞれは、かわいらしい柄がプリントされたりして、鬼頭さんも楽しそうです。「envelope as a door」の仕様にならって、100均で見つけたというシーリングスタンプ(封蝋)を模したシールで封がしてあるのを、そっとはがして中をのぞくと、なにやらいろいろなものが入っています。海で拾ったという石、LEDで七色に光るりんご、ポップアップの様に立ち上がる写真の切り抜き・・・これまたずいぶんとかわいらしいイメージに・・・というより、石もりんごも、ましてやタヌキなんて書いて送っていないはず・・・! ひとつひとつは箱庭を見るような面白さもあるのですが、それこそ(メールでしたが)郵送事故でも起こったのではと言うくらい、自分が送った言葉は、鬼頭さんのもとでずいぶんとちがうイメージに変容していました。

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会がはじまりしばらくして、皆さんにひとつひとつお渡ししました。まるでプレゼントの箱を開けるような様子で、楽しそうに眺めたり、他の人の箱をのぞかせてもらったり、ちょっとした余興のような雰囲気でしたが、もしかすると、なかには私と同じように少し戸惑われた方もいるのではと、ちょっと心配でもありました。ひとしきりご覧になられた後「ところで山口さん、なんて書いたんですか?」とおたずねがあり、鬼頭さんにお送りした短い言葉をお披露目しました。だいたいは「なるほど」と言って頷いてくださったのですが、「なんかちょっと違った」というような反応もありました。

 

つまりは、作品を<見る>というのは、このような<やりとり>のなかにあるのではないかと思うのです。皆さんの反応をお聞きするまで、私は写っていたものを<きちんと>言葉にしたつもりでいましたし、鬼頭さんが私の言葉を伝言ゲームのように汲み取って、それをある程度<忠実に>再現してくれると思っていました。でも鬼頭さんは違いました。私の言葉を受け取った上で、そこからイメージをまた広げて表してこられたのです。それは、たとえ「ちょっと違う」と言われようとも、自分は確かに送られた写真を<見て>そう読み取った。私はこう見た、ということからしか<見る>ことは、はじめられなのではないかという、鬼頭さんからの問いかけのように思われました。実際、私たちは作品から作家の言葉を<忠実に><なぞる>必要などなく、むしろ、そこで起きるずれの幅のはざまに、その作品への新しい視座が生まれる。作品とは、その人が<受け取る>ことからはじまり、それを別のかたちに置き換えて、つなげることで広がっていく。鬼頭さんのこの試みへのもうひとつの意図に、後になって気づかされたのでした。

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その<受け取り方>について、またひとつ、こんなことがありました。茶話会に参加されたおひとりが、「はじまった時からずっと気になってネットで追いかけていて、欲しい作品もいくつかあったけれど、封筒を開けずに持っておく自信がなくて、結局、買えなかった。でもenvelope as a doorっていったい何だったのか知りたくて来てみた」のだと話してくださいました。封筒を開けたら作品でなくなってしまうのではないか、というのが躊躇された理由でした。私はそれまで「envelope as a door」の<参加者>というのは<買ってくれた人>のことだと、どこかで思っていました。でもそうではなく、この方のように、気にかけてネット上で<見て>くれていた人がいたのです。そういえば、いくつかの作品には、即完売して買えなかった、というお声もたくさんいただきました。その方たちも含めて<参加者>であったことを意識していなかった自分を、恥ずかしく思いました。目には見えないところで、自分が思っている以上に「envelope as a door」に参加してくれていた人が大勢いたことを知りました。

 

そこから考えたのは「展覧会とはなにか?」ということでした。展覧会というのは、ギャラリーや美術館の<場>でのみ起きているのではないのではないか。<見に行く、行かない>、<人が来る、来ない>の問題では計ることのできない、その周辺で起きている出来事も含めて捉えられるべきで、展覧会とは、私たちが考えているよりも、ずっと広がりのあるものではないかと思うのです。

 

今から20年ほど前、藤本由紀夫さんのGALLERY CAPTIONでの初めての個展を開くにあたり、レコード盤にインクをつけてプレス機にかけた版画作品「DISK」を模した、型押しのDMをデザインしました。藤本さんご自身もとても気に入ってくださったのですが、その時「展覧会は案内状からはじまって、展示があって、カタログが作られることで、展示が終わっても、誰かがそのカタログを手にすれば、またそこで展覧会に出会うことができる。だから展覧会というのはずっとつづいていくものなんですよ」(*2)とお話されたことがとても印象的でした。ギャラリーでの展覧会の度にカタログを作るのは大変ですが、展覧会の<入口>として案内状だけはきちんとしたものを作らなければと思い、それが今もつづいています。

 

すると時々「ギャラリーには行ったことがないけど、DMだけは気に入って家に飾っています」という人に遭遇することがあります。こだわって作ったものなので、うれしいのですが、お越しいただくために作っている案内状が、実際、お客様をご案内するに至っていないとなると、正直、複雑な心境でもありました。でも今回のことで<DMだけ持っている>、それもまた展覧会に関わっていることになるのではないかと思うようになりました。ずっと展覧会の入口に立ちつづける、という姿勢もあるのだと。

 

このローカル展示を通じて、自分が企画した「envelope as a door」とは何だったのかを、ようやく私自身が知ることができたような気がします。もっと言えば、これまで試みてきた展覧会やプロジェクト、「よりみちプロジェクト-いつものドアをあける」(2009年)、閉じてしまったセカンド・スペース「front」(2014年-2017年)、そして今年オープンした「ETHICA」(2020年-)を含め、自分が試みてきたこと、発信してきたことを、この機会に<回収>することができたように思います。<ドア>は封筒だけではなく、もっといろいろなところで開かれていたのだということも、大事なことは受け取った人のなかにあるということも、その「いつものドアをあける」に寄せていただいたテキストで、秋庭史典さんが示してくださっていたことでした。(*3)

 

その機会を与えてくださったのは、他でもない<参加者>の皆さんです。ここに書いてきたように、あらためて気づき、知ることができたことが、他にもあまりに多くあり、皆さんからたくさんのことを教えていただきました。作品と鑑賞者の間に起こることを大切にしてきたGALLERY CAPTIONの活動が皆さんに届き、いつの間にかそれ以上に伝わっていたことを知り、大きな励みになりました。そして何よりGALLERY CAPTIONが、多くの優れた<鑑賞者>に支えられているという事実を、ありがたく思っております。また、こちらの突飛な提案に、素早く応えてくださった作家の皆さんにも(いつものことながら)頭が上がりません。藤本由紀夫さん、寺田就子さん、大岩オスカールさん、金田実生さん、木村彩子さん、植村宏木さん、中村眞美子さん、ありがとうございました。

 

大変長くなりましたが、「envelope as a door: local」のご報告とさせていただきたいと思います。展示、茶話会につきましては、鬼頭孝佳さんにあらためてテキストをお願いしておりますので、またかたちになりましたら、お届けいたします。

 

あらためてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

 

GALLERY CAPTION/ ETHICA

山口美智留

2021年10月13日

(*1)『芸術はアーティストが生み出す作品だけで完結するものではなく、鑑賞者が創造的行為に加わることによって作品が完成する。』(マルセル・デュシャン)

 

(*2)ちょっと記憶が足りませんが、おおよそこのようなことをおっしゃったと思います。

 

(*3)『そこであらためて思う。神社は美術品なのか?あのクロスが美術作品ならこのクロスは?といった問いは、疑似問題なのだ、と。文脈を定めずに「~とは何か』式の問いに答えるのは論理的に不可能だから、ということだけではない。“いつものドアをあける”というこのプロジェクトのドアがあいたとき、その向こうに見えていたのは-この疑似問題ではなく-ドアをあけたことでどんなむすびつきが生まれたり発見されたりしたのか、という問いだったからだ。」(「よりみちプロジェクト-いつものドアをあける」カタログ、『開けられたドアの両側で』秋庭史典(名古屋大学大学院准教授)、2009年)

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